Written by Yuki Takemori

自分が思う「正しさ」とそのときに求められる判断は違う

ライフ


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横断歩道を渡る前には、左側通行である日本では、「右を見て左を見てから、もう一度右を見る」ことが安全にそしてその前提である事故を起こさないようにするとヨイ。これはよく古い踏切の看板にある「とまり、ききみて通る」の意味かと思う。

さて、横断歩道から車道を見ると、場所によって踏切や交差点の前でなくても、ずいぶんと手前にぶっとい線が、停止線が敷かれてあることに疑問を持っている人も多いかと思う。

確認したことはなく、普段乗っている乗り物は自転車であるがために想像であるが、

道路を使っている人が車、歩行者問わず、事故を起こさないようにすることができることを計算して敷かれているのだと思う

これは先日インスタントの味噌汁や使い捨ての木のスプーンなどの買い足しに行った帰りに踏切を渡ろうとして、一時停止しようとしたときに、左方向から来る原付に乗った中年の女性が視界に入ったときに思い浮かんだことである。もちろんお互いにスピードは落としており、距離も2m以上あったために急ブレーキもいらないほどで、私は当てられることなく踏切を渡り、彼女は無事に交差点を通ったことだろう。

さて、このときに思ったことは繰り返しになるが、横の白線にしても停止線にしても、

道路を使っている人が車、歩行者問わず、事故を起こさないようにすることができることを計算して敷かれているのだと思う

これは学校や施設の前の横断歩道が見通しの確保のために奥のほうにあったり、縦横片方ずつしかなく一方通行のようになっている交差点があるのは同じ目的からであると思う。

さて、今でもそのときでも事故なしケガなしで無事ではあるが、失敗と恐怖体験を2個紹介する。詳細は下記のリンクの自己紹介をお読みいただきたい。

まず、25歳のときである。午前中の10時ぐらいにコンビニへの用事の行きしなに交差点に差し掛かったときである。歩行者用の信号機が青信号であり渡ろうとしたときである。原付が3台横並びになって近づいてきた。私は止まるだろうと思い込み、そのまま進んだ。しかし、3台の原付はスピードを落とすことなく、近づき左折し私に大声でかつ鋭く、「どけやァ!!、ボケぇ!!!」と言って私の前を走り去っていった。ケンカも格闘技も球技もしたことがない私にとって感じたことはただ恐怖で、もう少し早ければ当たっていたし、もし目を合わせていればリンチに遭ったであろう。特に禁止もされていないがケガも病気も格闘技も許されていない私にとってはただただ前に歩き続けることがそのとき唯一できることだったのである。その後、なんということだろうか。その3台のうちの銀色の原付に乗った坊主頭でTシャツ半パンの男が私の家の前を通り過ぎたではないか!このときただ怯えるばかりで家から出るなどというバカをやらないでおいたことが身をすくったのである。その目的と一度とおり過ぎただけの理由は本記事を書いている今でも不明であるが、その後その男と遭遇することはなく私は現在でも無事である。こうしてこの記事を書くことができているのは、そのときのタイミングと判断の積み重ねというほかなく(5年ほど前に、その男が近くに住んでいるかどうかは不明で、時間の経過と背格好から別の集団であると思うが、ある時その近くを通り過ぎるときに5~6人のうちの一人が謎に、そして怒鳴りつけるわけでもなく、かつ私にではないと言い逃れができるようにか「おい」と言ってきた人もいる。お互いに別人であると思うが、それぞれのつながりから私のことを知っての行動であると思う。ここでは誰を狙ってのことかは重要ではなく、自分でケリもつけず対策もしないままでは何度も同じことを繰り返すことを知っておいてほしくて書いた)、これを共有したいと思ったのは私のようなバカな目に遭う必要は、読者たちにはまったく必要がないからである。さてこの出来事での教訓は、

青信号は止まっていいのである。なぜなら「進むことができる」という意味なのだから

次は30歳を過ぎてからのこと上記の素材とした小学校の門の前でのこと。人が横断歩道を渡ろうとしていたので待っていたら後ろの何台後ろの車からであろうか、大声で鋭く「アホぅッ!!!」と一声。幸い歩行者が渡るのはその一人であったためにすぐに発信することができた。そのときに私と同じように歩行者が渡ることを待っていたと思しき小学生と思しき女性がその声を聞いて、嫌悪を混ぜて迷惑そうに眉根を寄せて私に振り返った。そこからは上記と同じくトラブルは起きていない。

さて、こういったトラウマとされるものの対策は、

同じ場所に行って、できれば似たような目に遭って違う行動をする

ことであると考えている。これは体育会系と言われる人がそれが球技であろうとなかろうと「まず、やる」に加えて、流れ玉や不意打ちに対して、「まず、生きのびる。そのために避ける」ことで反射神経と耐性がついていることによる強さに通じるものがあると思う(知り合いがいないため想像)。

さて、これらの経験は上記と同時に

自分が思う「正しさ」とそのときに求められる判断は違う

ことのメッセージであると思う。

上記の経験も含めてこのときに思ったことは、とても「正しさ」というものではなく、「何も来ないだろう」という思い込みすらしてなかったことである。もし踏切の手前の路地のぶん前に停止線がなく、一時停止の習慣がなければどうなっていたかと恐怖した。かすれて見づらくなっているとはいえ、停止線がガードレールの端に合わせるように敷いてあったおかげで難を逃れ、無事に家に帰ることができたのである。今度は、そして皆さんも停止線でただ習慣のように止まるだけではなく、ゆっくり前に出ながらのぞき込むように目視確認することを推奨する(もっとも路上教習では口酸っぱく怒鳴られながら指導を受けるためにこれを読んでいるであろう練達なあなたたちには不要かと思うが)。

道路で求められる判断の基準は法律とそれを基に設置されている標識や機器などの指示であり、「自分が正しい」という思い込みではないのである。

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