Written by Yuki Takemori

正義の味方も悪い奴も方向性の違いだけで中身は同じだと思う

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世界のどこかには「理想の卵も割ればオムレツ」という反応はすれど笑えないジョークがあるらしい。確かめたことはないが、これは、「どんなに外見がきれいでも中身が同じだから、結果は同じ」という意味だと思う。卵の中身は黄身と白身で、なおかつ火を通して焼けば、形やそのための調理法と違うだけで、その結果は広い意味ですべて卵焼きになるということがその着想であると想像する。

さて、

  • ズルいものが得をする
  • 汚い者ほど出世する
  • クズな男ほど女にモテる(逆は知らない)

ことが世の中が乱れていてもそうでなくても人間社会にいる限り事実であるがゆえに逃げることはできないだろう。逃げた先にあるのは、そこが北海道や沖縄でなくても、熊と相撲を取るかヘビとレスリングをすることになるといった純然な力による上下関係の中に行くだけであり、牧歌的な酪農や農業を営むことにならないと思う(それでも人間がイヤだと言ってする人もいるだろうが)。

さて、ではいわゆるフィクションの中にしかいない「正義の味方」善であるのかと言えばそうではない。例えば特撮の怪獣ものであれば、最低でも巨大な2体が街を踏んだり蹴ったりして壊しているし、そうでなくても主人公以外の誰かが犠牲になっている。これが現実であれば、例えばその「正しい人」は発言をしてるだけで実行はせずに誰かがするまで待っているだけで、失敗や過ちは他の人がしてくれるから指示をした責任も取らなくてもいいようにしていると思っていい。

つまり、「正義の味方」も「悪い奴」もしていることは、他人の犠牲で自分が生きやすい仕組みをつくっているだけあると言える。もっと言えば、その仕組みの中で争うのであればその仕組みを使っている限り両方が同罪であり、それを償い、その結果「いい人」のようにふるまうことができる担保にすることができるのは、犠牲になった少数のおかげでその他大勢の利益を保証し、発生したときだけである。

さて、「悪い奴」にバチが当たることを願い、彼らの悪事がバレて罰を受けたり、ケガや病気になったりしたときに「罰が当たった」と言って喜んでいるように見受けられる人もまた同じだと思う。それで溜飲を下げて、発散しているらしいのだが、それもまた行動に対する責任の回避であり、傷を負わず、病まず、恐れないでいることができるかどうかの確認をしているだけであり、それもまたズルさであると言える。 

誰かにバチが当たって喜ぶのは、それまでに受けた理不尽、例えばDVやいじめに対して、されたくないと思いながらも、善人ではなくなる恐怖や傷を負いたくないという目先の自分の欲を叶えるために自主性や主体性を捨てて服従を選んだ、もっと言うと家畜になることを選んだ事実を見ないようにしたいだけであると言える。特に男性に対してとの発言と観察される、

  • チー牛
  • 回避型男子

という発言に対して反応することや、戦時中に戦争反対を掲げてきた団体のおかげで今の日本の平和があるという人も、それをきれいに言うことができているのは、真面目で正直な人や、それを伝えるために逃げないことを選んだ人から拷問や処刑で犠牲になった人を踏み台にしたうえでその発言ができているという事実を彼らが言わないことにも表れていると言えるだろう。またそこまで次元は大きくなくても、セールスを追い返したり、何かを注意して逆恨みされることへの恐怖心も、身近な人、例えばその人の子どもが何らかの形で犠牲になっていることを担保にしているからできていたという事実から目を背けていることもまた同じであると言える

他には、逆恨みなど感情と相手を悪いかのような雰囲気をつくって無自覚でいるための計算や、へそ曲がりやあまのじゃくと言われる人が水を差すようなひねくれた発言をしても損をしないような場所と空気を誰よりも選んだうえで発言することや、無差別犯を自称する人が実は歩きスマホなどでその場で避けたり反撃できない人を選んでいたり、「結局は、出所(出自のことか)。」とその人にはどうしようもない事実を指摘し、純化するように発言することなどがある。

解決する方法は、受けた仕打ちを他人で仕返しする言い訳やウジウジかメソメソか泣いている時間を使って自分自身に向けた非情さをもって家畜に甘んじることをやめ、取り返しのつくことなどないという自覚と受容によって「まず、始める」だけである。

ちなみにズルくも汚くもなく稼いで生きる方法であればSNSに代表される「プラットフォーム」という企業や団体の商品や仕組みを利用して自分の人生を商品にすればいいだけの話だ。